ここ最近、「デザイン」とか「デザイナー」とか、
まだまだ、そんな言葉が明確に存在しなかった
(明確に社会に認識・必要とされていなかった)頃に、地域のことを想い考えていた
そんな「デザイナー的な先人たち」が沢山存在したのだろうな・・・ということを
日々の端々に思うようになった。
ふと耕作放棄地に見え隠れする、先人が創り出していた「風景」という造形のデザイン。
ふと目の前から切り倒され無くなった木々が担っていた地域の「風景」であったり、
「暴風」としての機能のデザイン。
ここで何度も出てくる「風景」という言葉は、普段「デザイン」という専門思考の領域でだけ
特定の人たちによって語られる言葉になってしまっていて、
日常的な生活者の間で「風景のデザイン」なんて難しい物言い・言葉を口にすることは
稀であるというのが、今現在の現実。
なんてことを自分なりに懸念しながら、ふとつい先日通りすがった
短い秋田の夏の玄関口・お堀の風景・・・、なんと、美しいではないですか。
一度は取り壊されかけていた
「旧県立美術館」と「お堀(満開の蓮の花)」が寄り添い関わりあう、秋田こその風景のデザイン。
その当時、そこに確かな「景観デザイナー」的存在が
いたのか否かは不明だけど(不勉強ですみません)、この風景にきちんと感じることのできる
秋田県民(秋田の生活者)は、一体全体、何人いるのであろうか?
以下、これは僕個人が密かに思っている考え方・感じ方ではあるけれど、
正直、今の旧県立美術館が「秋田市文化創造館」として生まれ変わってからの
「場所に対する地域市民(生活者)の感じ方」への
情報共有・伝達としての「デザイン・ケアの弱さ」が露呈してしまっていると感じている。
(これ、あくまで僕の物言いです)
まずは、もっともっと生活者に近い「一つの風景」を認識し合い、愛で合うような
そんな「やさしいところ」から始まる、秋田の玄関口のデザインがあるように思えてならない。
・・・ということで、つまるところは、
先人のデザインとも思える、何気ない「風景」に対して、血の通った感情を抱ける
地域市民(生活者)の気持ちの土壌教育が大事なのではないか・・・と
今日はお盆明け一発目、ちょっと堅苦しく難しいことを考えながら、
ご先祖様に手を合わせ、お見送りし、感謝してる次第です。
ではでは、国語・算数・理科・デザイン! (投稿:澁谷和之|澁谷デザイン事務所)