ここ最近、「デザイン」とか「デザイナー」とか、
まだまだ、そんな言葉が明確に存在しなかった
(明確に社会に認識・必要とされていなかった)頃に、地域のことを想い考えていた
そんな「デザイナー的な先人たち」が沢山存在したのだろうな・・・ということを
日々の端々に思うようになった。
ふと耕作放棄地に見え隠れする、先人が創り出していた「風景」という造形のデザイン。
ふと目の前から切り倒され無くなった木々が担っていた地域の「風景」であったり、
「暴風」としての機能のデザイン。
ここで何度も出てくる「風景」という言葉は、普段「デザイン」という専門思考の領域でだけ
特定の人たちによって語られる言葉になってしまっていて、
日常的な生活者の間で「風景のデザイン」なんて難しい物言い・言葉を口にすることは
稀であるというのが、今現在の現実。
なんてことを自分なりに懸念しながら、ふとつい先日通りすがった
短い秋田の夏の玄関口・お堀の風景・・・、なんと、美しいではないですか。
![](https://akitade.jp/yod/wp-content/uploads/2021/08/222写真-768x1024.jpg)
![](https://akitade.jp/yod/wp-content/uploads/2021/08/22写真-768x1024.jpg)
一度は取り壊されかけていた
「旧県立美術館」と「お堀(満開の蓮の花)」が寄り添い関わりあう、秋田こその風景のデザイン。
その当時、そこに確かな「景観デザイナー」的存在が
いたのか否かは不明だけど(不勉強ですみません)、この風景にきちんと感じることのできる
秋田県民(秋田の生活者)は、一体全体、何人いるのであろうか?
以下、これは僕個人が密かに思っている考え方・感じ方ではあるけれど、
正直、今の旧県立美術館が「秋田市文化創造館」として生まれ変わってからの
「場所に対する地域市民(生活者)の感じ方」への
情報共有・伝達としての「デザイン・ケアの弱さ」が露呈してしまっていると感じている。
(これ、あくまで僕の物言いです)
まずは、もっともっと生活者に近い「一つの風景」を認識し合い、愛で合うような
そんな「やさしいところ」から始まる、秋田の玄関口のデザインがあるように思えてならない。
・・・ということで、つまるところは、
先人のデザインとも思える、何気ない「風景」に対して、血の通った感情を抱ける
地域市民(生活者)の気持ちの土壌教育が大事なのではないか・・・と
今日はお盆明け一発目、ちょっと堅苦しく難しいことを考えながら、
ご先祖様に手を合わせ、お見送りし、感謝してる次第です。
ではでは、国語・算数・理科・デザイン! (投稿:澁谷和之|澁谷デザイン事務所)