子ども(赤ちゃん)の日々の行動観察は、
「デザイン」を深める上で、とても学び多き観察だなと、ここ最近よく思う。
僕には間も無く2歳になる息子がいるのだけど、
そんな息子の何気ない日々を観察することは、
ヒトの行動のピュアな部分(無意識な欲求など)を感じ、理解する
最善のフィールドだなと思ってならない。
僕は仕事柄もあってか、「付箋(ふせん)」という文房具を日常的によく使うのだけど、
そんな付箋を居間のテーブルに何気なく放置していた、ある日のこと。
「付箋」なるものが、本来兼ね備えていた(意図してデザインされていた)機能なんて
知ったこっちゃない我が息子が、
ある日、ただただ、黙々と、束になった付箋を、一枚一枚剥がす行為を繰り返していた。
その息子(子どもという人間)の行為のなかには、
元々の「付箋」というプロダクトに期待されていた機能を全く無視した
“人間の欲求を満たすものとして” の “確かな機能” が見え隠れしていた。
元々の付箋が持つ、貼っても剥がしやすいという「絶妙な心地よい粘着力」が
人間が無意識に求める「絶妙な抵抗感へ反発する満足」を、
一枚一枚剥がす行為の中で、地味にも満たしてくれていたその光景は、
とても淡々としたものだったが、見ている(観察している)こちらまで心地よく
見つめ眺めてしまう、そんな人間らしい光景・時間だった。(ちょっと難しい物言いになってごめんなさい)
間も無く2歳を迎える息子の子育てに直面してみて、新米パパの僕がいつも「大切だな」と思うこと。
それは、ただただ、人間としてのそのピュアな行為を見守ってあげること、それに尽きると思う。
「ただ見守ること」の大変さと、難しさ、そして、危険さ、さらには苛立たしさ……
などなど、それらの負と思われる感情こそ、
日々を健やかなプラスに転じさせる“デザイン・アイデア”の種の一つなのではないかと僕は思ってしまう。
(いやいや、そんなこと思えるわけないでしょ! ってお母さんたちの激怒が聞こえてきそうですが……)
きっと、付箋の束を一枚、また一枚と剥がしてしまう子どもの行為を目の前にしたら、
大抵の親御さんは「付箋を剥がしちゃダメ! もう使えなくなっちゃうでしょ!」と怒って
その行為自体を簡単にやめさせてしまうのが普通であり、自然かもしれない。
それはごもっとも、間違った教育ではないと思う。
ただそれは、僕の個人的な見解からしたら、「間違った教育」であることも、ここに言及したい。
「付箋」というプロダクトが持ちえた機能を、
「メモを書いて目印に貼っておくもの」という限定した機能の範疇でしか認識できない
現状の生活者一般の意識に対する問題提起がここにある。
付箋を一枚一枚、丁寧に小さな自分の指先を使って剥がして、
満足を、納得を、そして、やり切った達成感を、子どもがしっかり心の中に獲得していたら
それはそれで、確固たる成長過程に役立つ「付箋(デザイン)」の機能ではなかろうか?
そこの「説明書のない機能性」を愛でてあげられる子育て、子どもの教育が育まれたら
きっと、きっと、そこには、僕ら「国語・算数・理科・デザイン!」のメンバーが理想とする
社会の在り方が見え隠れしているような気がする……
なんて、無謀にも剥がされ、投げ捨てられた付箋を、せっせと一枚一枚拾い集め、
また元通りの付箋の束に戻しながら、そんなことを考えている、新米パパデザイナーであります。
ではでは、国語・算数・理科・デザイン! (投稿:澁谷和之|澁谷デザイン事務所)